匣の中の失楽(レビュー)

 小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、中井英夫の『虚無へ
の供物』と続いてきた精神史の「黒い水脈」(埴谷雄高)は、その後二つの流れに分かれ
る。ひとつが竹本健治による『匣の中の失楽』であり、もうひとつが笠井潔による<矢吹
駆>連作である。しかし、この二人は、志向するものからして異なっていた。 
(1)『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』といった笠井による<矢
吹駆>連作は、過剰な思想性が盛り込まれているとはいえ、オーソドックスな探偵小説
である。一方、『匣の中の失楽』『闇に用いる力学』の竹本健治が志向するものは、アン
チ・ミステリーの方に向かっている。それは、あらゆる探偵小説的要素を自作に詰め込
み、これに耽溺しつつ、探偵小説の呪縛を憎むという方向である。 
(2)竹本健治自身『ウロボロスの基礎論』で書いているように、笠井潔は求心的なパラノ
であり、竹本の方はスキゾに向かっている。このことは、初期の笠井が『「戯れ」という制
度』において、脱コード化を説くスキゾの代表格浅田彰と対立姿勢を示し、今日、竹本に
対しては<天啓>シリーズを書き、また竹本のスキゾ性をさらに極端にした新世代の作
家、例えば清涼院流水らの文学に対しては、構築なき脱格系であると断罪することに繋
がっている。 
 しかし、竹本の出発点である『匣の中の失楽』の時点で、既にふたりの違いが歴然とし
ている。 
 『匣の中の失楽』は、万華鏡のような幻惑の書である。発端で、探偵小説マニアのファ
ミリーで、黒魔術師と呼ばれている男が殺害される。ファミリーの一員であるナイルズの
書いた探偵小説をなぞるように。当初は、どこが現実で、どこからか虚構なのか、判って
いたはずだった。しかし、章を読み進めてゆくうちに、その前提となるリアリティーの底が
失われ、アイデンティティさえも糸のようにほどけ始めるのだ。こうして読者はたとえよう
もない不安にさらされる。この不安とは、なにか。 
 一方、笠井潔の<矢吹駆>初期三部作は、自分の観念を削ぎ落とし、これを消尽する
ことに向けられている。なぜなら、笠井にとって観念とは肥大の果てに、連合赤軍事件の
ような倒錯した悪を引き起こすものだからである。初期の笠井がやろうとしたことは、デ
カルトの方法序説の実存版であった。観念を削ぎ、最終的にこれ以上、打ち消すことの
できない実存の根底にいたること。バタイユも、シモーヌ・ヴェイユも、そのような過酷な
消尽をやってのけた先駆者だった。 
 笠井潔の場合、観念を削ぎ落とした果てに、現象学的に導き出したリアリティーの底が
あった。一方、竹本健治の場合、そのような確固たるリアリティーの底などはなく、上下も
定かでない宇宙のふきさらしの中に、読者を連れてゆくのである。(この傾向は『連星ル
ギイの胆汁』において、さらに顕著である。) 
 確固たる基盤を手に入れた者は、そこに威圧的な巨大建築を打ち立てることも可能に
なる。まるで観念の大伽藍に似た巨大建築を。一方、宇宙の虚無に晒された者は、確固
たる基盤から砂粒が零れ落ちてゆくのを幻視することになるだろう。 
 『匣の中の失楽』の虚構と現実の関係は、ちょうど『ドグラ・マグラ』における精神病院
の内と外の関係に似て、無限の反転を繰り替えす。この匣は、竹本健治によるクライン
の壷である。 
 この匣を通過するものは、千の仮面を持ち、根拠の不在を哄笑するツァラトゥストラへ
と生成変化を遂げることになる。




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