語られることのない物語〜『闇のなかの赤い馬』をめぐって

原田忠男


※本論考は、ネタバレを含んでおります。『闇のなかの赤い馬』を未読の方は、ご注意く
ださい。

『闇のなかの赤い馬』を未読の方は、
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YES

今回使用したテクスト

講談社刊


I. これは児童文学ではない

 『闇のなかの赤い馬』は、講談社の「ミステリーランド」のなかの一冊として刊行された。「かつ
て子どもだったあなたと少年少女のための」と銘打たれたこのシリーズは、児童文学の体裁を
もっており、子どもにも読めるように総ルビがふられている。
 ところが、著者の竹本健治は、あとがきのなかで「自分が子供だった頃に読みたかったよう
なものを書いてください、と宇山さんに言われました。僕はいつもそういうものを書いているつも
りなので、いつものように書きました。文章も特に子供向けにはしていません。」(P238)と書いて
いるのである。
 実際、『闇のなかの赤い馬』というタイトルは、埴谷雄高の『闇のなかの黒い馬』、あるいは著
者自身の『闇に用いる力学』を連想させるものである。
 埴谷雄高の『闇のなかの黒い馬』は、真夜中、不眠症で夢想癖のある著者のもとに、玩具の
黒い馬がやってきて、無限の彼方に連れていかれるという設定の物語であり、無限に広がった
宇宙的観点から、誤謬に満ちた人類史を見直し、存在の革命を希求するという物語である。そ
れは影絵か、銅版画のような妄想の世界である。
 埴谷雄高の代表作は『死霊』であるが、『死霊』はドストエフスキーの『悪霊』および『カラマー
ゾフの兄弟』の「大審問官」の章にインスパイアされており、革命と権力の問題(目的は手段を
浄化し得るか。明日のユートピア建設のために、今日の何千・何万の人の死は、果たして正当
化しえるのか。無神論とは、天国を地上に引きずり降ろす試みなのか。超人以外の一般人に
とって、キリストの説いた極限の自由は重荷なのか。等々)を継承し、カント的認識の制約(宇宙
の果て、神の存在、物自体は、先天的悟性形式の限界により、知りえない。)のない影絵か、
銅版画のような妄想の文学空間で、徹底的に追求した作品である。
 つまり、『闇のなかの黒い馬』は、『死霊』を生み出す母胎となった作品であり、要するに<大
人の文学>である。
 一方、竹本健治のライフワークである『闇に用いる力学』は、現在[赤気篇]のみが公開されて
いるが、『匣の中の失楽』が個の狂気を扱った作品とするなら、集団の狂気を扱った作品であ
り、その中では無数のオカルト団体や超心理学団体がうごめき、財閥が背後で暗躍する世界
である。この中では、功利性のための種の改造や、恐怖に満ちた超能力を用いて世界を蹂躙
する欲望が描かれる。これもまた、<大人の文学>なのである。
 とすれば、『闇のなかの赤い馬』もまた、語られていないだけで、<大人の文学>ではないか。
もっといえば、「ミステリーランド」という出版形式に則って、<児童文学>として出版されること自
体も、語られないもうひとつの物語を隠蔽するトリックであり、「あとがき」は探偵としての竹本
健治がそのトリックのネタばらしをしているのだと受け取るべきではないか、と思うのだ。

II. 分裂した自我の物語

 ミステリーという形式は、「謎-解明」という構造を持つがゆえに、登場人物の内面に踏み入ら
ない場合が多い。しかし、表層のトリックの解明とは別に、語られないもうひとつの物語を浮か
び上がらせる構造を持つ本書では、殺害されるベルイマン神父の内面が、もうひとつの「謎」と
なり、子どもたちの物語が終わった後で、大人たちのもうひとつのミステリーが始まるようにな
っている。
 この物語に登場するベルイマン神父は、明らかに映画監督のイングマール・ベルイマンを彷
彿とさせる。笠井潔の矢吹駆シリーズでは、毎回知識人をモデルにした登場人物を登場させて
いるが、それと同じことである。あるいは、これは矢吹駆シリーズの形式を踏襲する竹本健治
ならではの遊びではないか。
 イングマール・ベルイマン監督のテーマは、キリスト教への信仰をめぐる苦悩と分裂の世界で
ある。たとえば、代表作の『処女の泉』を見てみよう。16世紀のスウェーデンの片田舎でカリン
は、敬虔なクリスチャンとして育てられる。日曜日、彼女は、召使いを連れて、遠く離れた教会
へロウソクを捧げに向かう。ところが、道の途中で、カリンは信仰の違いから召使と離れてしま
う。そのため、森の中でカリンは、三人の男に襲われ殺されてしまう。事実を知った父親は復
讐を遂げるが、その罪悪感におそれとおののきに襲われる。父親を救済したものは、変わり
果てた娘の側から湧き出る清らかな泉だった。
 つまり、映画におけるベルイマンは、文学・思想におけるシモーヌ・ヴェイユに相当するのであ
る。(一方、映画におけるルイス・ブニュエルは、文学・思想におけるジョルジュ・バタイユに相当
するといえなくもない。)
  『闇のなかの赤い馬』は、ミッション系の聖ミレイユ学園での物語であり、「中央は高い尖塔に
なって」(P17)おり、それがキリスト教の超越性・至高性のメタファーとなっている。この作品世界
でのキリスト教のヒエラルキーについて考えてみよう。最も上位に立つのは、黒服の神父たち
であり、彼らはキリスト教の教条の「表象=代理」機能を受け持っている。彼らは、大文字の主
体(S)であり、小文字の主体(s)としての生徒に呼びかける。そして、小文字の主体(s)同士の呼
びかけあいを通じて、キリスト教の教条が内面化され、自己を監視する自己が形成される。
 作品の冒頭で、落雷による非業の死を遂げるウォーレン神父は、「倫理社会」(P77)の担当で
あり、「タジオが文化部の研究発表誌に載せた、神が存在しないことを論証しようとしたレポー
ト」(P12)に対して、タジオを「教員室に呼びつけ」(P11)イヤミを言い続けたというエピソードから
も、キリスト教教条のまじめな履行者であったことが想像できる。ウォーレン神父は、生徒にキ
リスト教の倫理・規範に少しでも離反する傾向があれば、それを矯正する役割を学園内で果た
していたと考えられる。
 ここで、ふたつの生徒たちのグループについて、考えてみよう。まず、宗教研究会。この団体
は、キリスト教教条を内面化した子どもたちであり、聖ミレイユ学園にとっては理想的な子ども
たちである。もうひとつは、汎虚学研究会。こちらは「浮世離れしたことをダラダラくっちゃべっ
ているだけの集まり」(P14)であり、学園内でも非主流派の変わり者の集団のようである。宗教
研究会は、真面目なパラノであり、汎虚学研究会は不真面目で自由なスキゾと対照的である。
 先ほど、聖ミレイユ学園の中央の尖塔は、キリスト教の超越性・至高性のメタファーと述べた
が、その対極にあるのが、物語の後半で登場する地下(underground)の世界である。地上の世
界がキリスト教の聖なる光が届く場所であるならば、地下(underground)の世界は光の届かな
い闇の世界である。
 聖ミレイユ学園を、キリスト教によるひとつの完結した権力装置(牧人-司祭制)としてみるなら
ば、地下の世界は権力の光の及ばない世界となるだろう。また、聖ミレイユ学園を、キリスト教
によるによる完成された精神の世界と見るならば、その尖塔は超自我(super ego)であり、地上
の世界は自我(ego)の世界であり、地下は無意識(id、es)の世界となるだろう。
 地下の世界には、欲動の世界である。羽柴先輩は言う。「神父という生き方って、凄く特殊だ
ろ。結婚もせず、ずっと禁欲しながら、神への信仰に一生を託すんだから。まぁ、ほかにもいろ
んな節制はしてるんだろうけど、性欲ひとつとってみても、人間の自然な欲望を完全に封じ込
めるような生き方をしていると、おかしくなってくる部分もあるんじゃないか」(P78〜79)
 では、この物語の語り手の室井環の夢に出没する「赤い馬」とはなにか。それは、地下の世界
で暴れ狂う欲動の力である。この「赤い馬」は、リビドーの奔流なのである。室井環が「赤い馬」
の夢を見るようになったのは、潜在意識下に「赤い馬の絵」を刷り込まれたからなのだが、どう
やらこの「赤い馬の絵」は、地下の世界に押し込めた欲動に火をつける脱抑止因子として潜在
意識に対して機能するようだ。
 「赤い馬の絵」のもともとの所持者は、ウォーレン神父であった。つまり、ウォーレン神父の厳
格さは、無意識の世界を抑圧して成り立っていることを示している。もうひとつ、「赤い馬の絵」
は事件の犯人の手に触れることになるが、このとき「赤い馬の絵」は、荒々しく暴力的な供犠の
執行に火をつける脱抑止因子として潜在意識に対して機能する。
 果たして、「赤い馬の絵」とはなにか。仮に、「赤い馬の絵」を見ると、欲動のたがが外れるよ
うに、催眠術にかけられていたのだろうか(極めて合理的な解釈)。あるいは、意識でなく、潜在
意識に働きかけるという意味で、サブリミナルと同じ効果のある絵であるとでもいうのだろう
か。あるいはまた、これは性魔術のテクニックであり、「赤い馬の絵」はシジルのように、邪悪な
クリフォートのパワーがチャージされていたとでもいうのだろうか(極めて非合理的な解釈)。
 次に、ベルイマン神父は、この物語の中でどのように位置づけられるのか。聖ミレイユ学園
の中での彼の実存的世界定位を引き出さねばならない。
 ベルイマン神父は、「精神的に不安定」(P77)であり、そのために授業の受け持ちがなかった
のではないかと生徒に噂される人物である。精神的に不安定な彼は「不眠症で、睡眠薬を常
用」(P200)していたという。彼は、「キリスト教だけでなく、いろいろな宗教のことも詳しく」(P199)
「キリスト教の本当の姿が分からない」(P200)という悩みをよく口にしていたという。
 ベルイマン神父は、宗教学に詳しかったようだが、宗教学には大きく分けて二つあり、ひとつ
は自身の宗教の教義についての護教的な学であり、もうひとつはあらゆる宗教を平等に扱う
比較宗教学もしくは宗教人類学である。前者についていえば、カトリックならトマス・アクイナス
の『神学大全』を筆頭とするスコラ哲学を学ばないといけないし、プロテスタントならば、マルティ
ン・ルターの著作を学ばなければならないだろう。ところが、ベルイマン神父はキリスト教以外
の宗教にも詳しかったということは、前者だけでなく、比較宗教学(ミルチャ・エリアーデ等)の著
作にも親しんでいたということになる。つまり、ベルイマン神父は、神父でありながら、多元的な
価値観を持っていた可能性があるということである。
 おそらく、ベルイマン神父は、高い尖塔=超自我=光の世界、地下=欲動=闇の世界の両
方に足を突っ込んでおり、分裂した矛盾の中を生きていたと考えられる。そして、このように自
分が悩むのは、現在のキリスト教が本当のキリスト教ではないからであると、すなわち、現在
のキリスト教は、誤って伝わっており、キリストの本当の教えは違うと考えたのではないか。「キ
リスト教の本当の姿が分からない」(P200)ということは、そう解釈できる。このように、現在のキ
リスト教には納得しないが、それはあるべきキリスト教ではないからだと考えた人は、たくさん
いる。たとえば、レフ・トルストイ。彼は原始キリスト教こそ、理想のキリスト教であると考えた。
あるいは、キルケゴール。彼は世俗のキリスト教徒は形骸化した教条を守っているだけで、自
分こそが真のキリスト者であると考えた。そして、シモーヌ・ヴェイユ。彼女は赤い処女と呼ばれ
たほど常に虐げられた者の側に立ち、他の誰よりも深い信仰を持っていたが、カトリックによる
洗礼を拒み続けたのである。ベルイマン神父が向かいつつあったものが、原始キリスト教なの
か、グノーシス主義的なものであったのかは、知る余地はない。だが、ひとりの求道者であった
ことは想像に難くない。


III. ベルイマンになにが起こったのか

 果たして、そのような求道者が、ツバサに対してあのようなことをするのか、大いに疑問であ
る。というか、あのようなことをしたということ自体、根拠に乏しい。また、その後のツバサの振
る舞いをみても、あのようなことがあったというようなふるまいは見られない。
 このことは、もともとあのようなことはなかったことを意味しているのではないか。
 ベルイマン神父が、上記のような人物であったとするならば、神父仲間の中でも浮いていたと
いうことは想像できる。学校であるにもかかわらず、教科担当でなかったということは、彼の精
神状態のみならず彼の思想が危険視されていたか、無能扱いされていた可能性を示す。
 また、この物語の探偵役が捜査権のない汎虚学研究会であり、子どもであることから、真実
を認識する上でネックになっている可能性がある。
 ベルイマン神父の実像についても、子どもの反応は、噂や推測の域を出ず、ベルイマン神父
と直接話したということはない。
 大人たちからは異端視され、子ども相手には自分の悩みをすべて話すこともできなかったベ
ルイマン神父は、誰からも理解されていたとはいえず、ただ精神的に不安定だとか、睡眠薬を
常用しているようだとかの奇行だけが目立っていた。
 つまり、ベルイマン神父は、ヴァルネラビリティー(負性)があったということなのだ。
 ヴァルネラビリティー(負性)があったということは、あることないことが言われやすくなるという
ことである。実像が理解されていない浮いた存在なので、あることないことがまことやしかに伝
達される。そして、伝達を受け取った人が、別の噂のルートで伝達を受け取り、その噂は、真
実より本当らしくなるだろう。
 こうして、すこしづつ世界は閉じられてゆく。某団体の真面目で、パラノイアな性格が、まった
く別な方向に作動するようになるだろう。
 ベルイマン神父は、異端者である。異端者を殺せ!
 真面目で、パラノイアックに神を信仰しているがゆえに、信仰をめぐって苦悩し、揺れている
存在が許せないのだ。神を信仰すればするほど、神のつくりだすシンプルで美しい秩序を乱す
ファジーな存在が許せないのだ。
 こうして、神を信仰している者が、悪魔になる。
 なぜ、こんなことになったのか。大いなる総合を行わなかったからだ。地下に、抑圧したエネ
ルギーが、血まみれの子羊を供犠にせよという声に変貌して、噴出している。このとき、神とい
う言葉は、殺戮を正当化するためのスローガンとなる。
 殺せ!殺せ!ベルイマンを焼き殺せ!
 ドーパミンがA10神経を流れ、殺戮者は次第に自身が高揚してくるのをかんじている。
 こうして、われわれは一体になるのだ。われわれは、運命共同体だ。そう、われわれこそが
殺人者なのだ。
  殺せるさ、殺せるはずさ。黒服に呪いの焦点を合わせるだけなのだから。
 意識を集中させろ!
 呪いの臨界点を超えるとき、炎の中で邪眼は相手の心臓を捉えるはずだ。
 このとき、噂を流した最初の人間は、最後まで匿名のままであるだろう。それは、神父仲間で
あるかも知れない。生徒の中にいるのかも知れない。あるいは、また冗談で口にしたたけで、
本人すら気づいていないのかもしれない。そう、犯人はあなたかも知れない。

(2004.2.29)


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