不連続線と絶対の探求〜『匣の中の失楽』をめぐって(前編)

原田忠男


※本論考は、ネタバレを含んでおります。『匣の中の失楽』および『惑星ルギイの胆汁』
を未読の方は、ご注意ください。

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今回使用したテクスト

講談社ノベルス版


零 相対化と絶対化のベクトル
 竹本健治の『匣の中の失楽』は、相反するふたつの意志のベクトルに貫かれている。
ひとつは、根底的なな相対化への意志であり、もうひとつは、絶対的なもの、超越的なも
のへの意志である。

壱 <現実>と<虚構>のあいだで
 まずは、相対化ということについて考えてみよう。
 読者は、まず「序章に代わる四つの光景」によって、以下のような光景を目撃すること
になる。
1.曳間了の霧の中でのモノローグ、<不連続線>を超える試みについて
2.真沼寛のデジャ・ヴュ、思考が盗まれる経験について
3.倉野貴訓と久藤雛子の目碁で起きた三劫、不吉な予兆について
4.ナイルズこと片城成が実名小説『いかにして密室はつくられたか』を書くことを、ミステ
リー・マニアのファミリーに宣言するシーン

 こうして、一章に辿りつき、曳間了が<さかさま>の密室で殺害されているという場面
に出会うことになる。この密室が<さかさま>と呼ばれるのは、以下の理由による。
1.密室の情況からして、犯人が犯行現場から逃走することなく、三時間以上留まってい
たと判断されること
2.『いかにして密室はつくられたか』が事件を先取りしていたこと
3.ミステリーマニアのファミリーは、第一の被害者曳間了のためにも、犯人は用意周到
にして、練りに練った犯行計画を遂行する最高の犯人でなければならず、しかも連続殺
人であることを望むという倒錯的な論理を展開していること

 「序章に代わる四つの光景」から一章に読み進んだ読者は、この一章をこの小説内の
<現実>であるという前提で読んでいる。
 ところが、二章の冒頭で、『いかにして密室はつくられたか』の「序章に代わる四つの光
景」から一章までを読んでいる曳間了が登場する。
 とすれば、これまでの物語は、<現実>ではなく、<虚構>であり、二章こそが<現実
>ということになる。しかし、二章が<現実>であるという保証はなにもないのだから、二
章こそが『いかにして密室はつくられたか』であり、<虚構>である可能性も否定できな
い。こうして、読者は<現実>と<虚構>の間で、宙吊りになるのである。
 だが、物語は宙吊りのままの決定不能な状態のまま、さらに密室で真沼寛が消失する
という事件が発生する。鏡に血模様を残して。

 三章に移る。ここではやはり曳間了は死亡している。では、二章が<虚構>だったの
かといえば、真沼寛は失踪したままとされているから、あながち<虚構>ともいえない。
事態は、ますます混迷の度合いを強めてゆく。
  あたかも、ルービンの壷が、地と柄が無限に反転するように見えるように、『匣の中の
失楽』は<虚構>と<現実>が無限に反転する幻惑の世界にわれわれを導く。

  混沌の原因は、『匣の中の失楽』の中に仕掛けられた『いかにして密室はつくられた
か』という装置にある。
 この作中作は、犯人に対して、<現実>にどのような殺人を実行すべきか指南すると
ともに、起きた事象を丸呑みして、<虚構>に変換する。
 観測者が観測対象に関わることで、観測対象は影響を受ける。
 それと同様に、『匣の中の失楽』は、この作中作によって、『匣の中の失楽』の中で起き
ていることを正確に観測することができない。

 『匣の中の失楽』に登場する登場人物は、ことごとく人形であり、そのことは「黄色い部
屋」のおびただしい人形を見ながら、倉野貴訓も気づいたことである。
 この物語では、人間が描かれていない。
 主役は登場人物ではなく、<書くこと(エクリチュール)>それ自体にある。
 この物語は、あらゆる探偵小説的要素(密室、一人二役、暗号……)を一冊に詰め込
んだ超ミステリーであるが、最大のトリックはそんなことにはない。<書くこと(エクリチュ
ール)>それ自体にあるのだ。
 <書くこと(エクリチュール)>自体をトリックとする叙述ミステリーは、アガサ・クリステ
ィーから折原一に至るまで多々あるが、 『匣の中の失楽』の場合、<現実>と<虚構
>の二項対立をなし崩しにし、決定不能状態で読者を宙吊りにすることを目標としてい
る。

 竹本健治作品の重要なテーマに、<現実>の根拠がなくなり、あたりまえと思われてい
た前提が崩壊し、主人公が否応なしに、世界の意味、そして自己という謎に直面すると
いうことがあげられる。
 『匣の中の失楽』では、読者である<あなた>がアイデンティティーの危機に陥る。没
入した作品世界での<現実>の基盤がなくなるのだから。
 竹本作品における探偵とは、世界という暗号を解く者を意味する。
 なぜ、世界が暗号なのかといえば、それが理解不能であるかのように見えるからであ
る。竹本作品において、世界と、暗号解読者としての探偵は、親和的ではない。
 竹本作品の魅力は、世界という暗号と、それを解こうとする探偵との緊張関係、せめぎ
合いにある。 

 中井英夫の『虚無への供物』は、七月十二日までの物語だった。 『匣の中の失楽』
は、その翌日の七月十三日から始まる。 両者の継承関係は明らかである。
 『虚無への供物』は、アンチ・ミステリーという新機軸を打ち出した物語である。それ
は、戦後の不条理な大量生と大量死への反転という意味合いが込められていた。『匣の
中の失楽』に頻出する<さかさま(さかしま)>という言葉は、この作品が中井英夫の行
った反転の継承・発展形であることを示している。
 <さかさま(さかしま)>という言葉は、J・K・ユイスマンスの『さかしま』をも連想させ
る。J・K・ユイスマンスの『さかしま』は、デ・ゼッサントというひきこもりを主人公にした物
語である。現実憎悪と生活への侮蔑、生産第一の世界への反逆のために、デ・ゼッサン
トは高踏趣味の部屋をつくりあげる。『匣の中の失楽』では、ミステリーという趣味に耽溺
する若者だけの匣という名の小宇宙が描かれる。


弐 脱構築と現象学
 竹本健治が『匣の中の失楽』(1978)で辿り着いた地点は、虚点と呼ばれるべきだろ
う。
 <虚構(内部)>と<現実(外部)>という二項対立の無効化、根拠を剥奪された決定
不能状態、メタファーとしての不確定性原理……この地点は、後に柄谷行人が『隠喩とし
ての建築』(1983)で行った脱構築(ディコンストラクション)が辿り着いた地点ではなか
ろうか。(柄谷の場合、ゲーデルの不完全性原理に言及することが多い。)

 柄谷行人の『隠喩としての建築』は、世界的視野からみると、ジャック・デリダの脱構築
に呼応した仕事であった。
 ところで、ジャック・デリダの脱構築とフッサールの現象学との両立は不可能である。
 デリダは『声と現象』で、私が語るのを聞くという形而上学を批判し、フッサールを音声
文字中心主義として否定する。

 たとえば、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』に登場する矢吹駆は、自身の推理にフッ
サールの現象学的還元を導入して、本質直感を行う。矢吹駆は、ラ・ヴィ・サンプル(簡
単な生活)を行っているが、これはすべてを削ぎ落とし、削ぎ落としきれないものに辿り
着くための方法である。
 矢吹駆にとって、削ぎ落とすべき余分なものは、かつての自身が抱えていた革命の観
念である。この観念は、現実から遊離すると、肥大し、やがて自身を飲み込んでしまう。
やがて、人民のための革命が、革命のためには無差別大量虐殺も辞せずという倒錯に
行き着く。矢吹駆は、そのために現実から遊離した妄想のすべてを削ぎ落とそうとする
のである。
 彼の現象学もまた、本当のリアル、本当の自分に辿り着くための方法としてある。
 
 竹本健治においても、これはすべてを削ぎ落とし、削ぎ落としきれないものに辿り着く
意志はある。
 たとえば、<クー>や<パーミリオンのネコ>、そして<ティナ>が過酷な運命にさらさ
れるのは、より深い私、より深い現実に辿り着くためのハードルである。
 これは、デカルト的な方法的懐疑に似ている。デカルトは、すべてを懐疑し、懐疑しえな
い「考える私」を思考の出発点とした。<クー>や<パーミリオンのネコ>、そして<ティ
ナ>が行っているのは、実存的な方法的懐疑である。
 
 ところが、竹本健治においては、徹底的な懐疑の果てに、<現実>の底に辿り着いた
瞬間に、<現実>の底が割れるのである。
 『匣の中の失楽』の場合、章が変わるたびに、読者のなかで<現実>とはなにかが崩
壊する。その果てに、見出されるものは、もはや<虚構>でも<現実>でもなく、決定不
能の宙吊り状態である。
 竹本健治の辿り着いた場所は、着地点を許さない虚点である。

 たとえば、『腐蝕』および『惑星ルギイの胆汁』の主人公<ティナ>は、なんどでも過酷
な状況下に、名前すら書き換えられて投げ込まれる。
 そして、ぎりぎりのところで、サバイバルを強いられる。
 そう、何度でも、執拗に。
 これは、作者の趣味だけの問題ではない。主義の問題でもある。
 竹本健治は、<現実>の基盤に攻撃を仕掛け、これを徹底的に相対化させる。もは
や、まどろみの生を生きることはできない。主人公は覚醒する。
 しかし、一瞬見出された虚点は、ふたたび<つじつまあわせ>により、修復され、見え
なくなるだろう。<現実>は回復し、あたりまえのことのように動き始める。
 だから、竹本健治の勝利は一時的であり、さらなる外部を目指し、世界との総力戦を
続けるしかない。

  笠井潔の思想的ポジシオンは、反「超コード化」にある。これは、一見過激に見えて、
実は裏で「超コード化」と手を握っている。なぜなら、「超コード化」を逆転する身振りにお
いて、ほとんど「超コード化」を保持しているからである。

 笠井潔の思想的核心は、ジョルジュ・バタイユにある。『哲学者の密室』以降、彼はマ
ルティン・ハイデッガーと完全に手を切り、エマニュエル・レヴィナスに乗り換えたが(もっ
とも「飛沫の実存イメージ、エマニュエル・レヴィナス論」の頃から、その予兆はあっ
た。)、ジョルジュ・バタイユへの忠誠は変わらない。
 バタイユの思想的ポジシオンは、反「有神論」にある。これは、一見過激に見えて、実
は裏で「有神論」と手を握っている。なぜなら、「有神論」を逆転する身振りにおいて、ほ
とんど「有神論」を保持しているからである。

 彼らは神や定言命令に背く身振りにおいて、自身のダンディズムを追及し、むしろ積極
的に怪物になろうとする。
 だが、怪物は、天使ではない。天使とは、超怪物なのだ。

 「超コード化」が崩壊し、神が不在の現代において、彼らの試みは反動的である。 彼
らは、「超コード化」や「有神論」に存命の活路を与えてしまうだろう。

 一方、竹本健治の『匣の中の失楽』は、<虚構>と<現実>の二項対立をなし崩しに
する<クラインの壷>としての「匣」が舞台であり、この「匣」を如何に脱出するか、がテ
ーマとなっている。
 <クラインの壷>とは、制限された「脱コード化」であり、「匣」の脱出とは無制限の「脱
コード化」を意味する。
 つまり、『匣の中の失楽』は、来るべき極限の自由空間〜リゾームを告知する。

 カスタネダの師匠の呪術師ドン・ファンは、幻覚性の植物を与え、カスタネダの<現実
>を揺さぶる。
 これにより、カスタネダは、文化人類学による構造分析の限界に気づき、呪術の世界
に本格的に踏み込む。カスタネダは、最初、文化人類学のフィールド・ワークのために、
ドン・ファンのもとを訪れたのである。
 こんどは、幻覚による世界を<現実>であると言い出したカスタネダを、ドン・ファンは
叱咤する。そして、次のようなことを言う。
 お前はいつもこれが<現実>だといって、釘付けになっている。私のもくろみは、どこ
にも釘付けにならないようにすることなのだ、と。

 私たちは、幻覚性の植物を必要としない。竹本健治という幻視者がいるからである。
 
 矢吹駆の目標地点は『薔薇の女』で示されたように、生前解脱にある。ところが、『薔
薇の女』の段階では、まだ生前解脱は<生きられた>状態で描かれてはいない。その
後、ハイデッガーやフーコーをモデルとする登場人物との思想的闘争を行った矢吹駆だ
が、生前解脱という目標地点に至るという点では、足踏み状態である。
 果たして、この地上に釘付けになったままで、生前解脱が可能だというのだろうか。
 
 竹本健治は、矢吹駆の遥か先を行く。『惑星ルギイの胆汁』では、とうとうナーガルジュ
ナ(竜樹)を登場させ、シッダールタとの全面闘争に突き進む。
 ナーガルジュナの『中論』は、一切は<空>であり、実体を持たないことが説かれる。
 ナーガルジュナの立場からすれば、どこかに着地する、あるいはどこかに釘付けにな
ることは、いまだ空性の理解に到達していないということになる。
 空性の理解なしに、生前離脱はありえない。

(2004.3.13)
(2004.3.14改稿/3.17一部加筆)


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