不連続線と絶対の探求〜『匣の中の失楽』をめぐって(中篇)

原田忠男

※本論考は、ネタバレを含んでおります。『匣の中の失楽』および『闇に用いる力学[赤
気篇]』を未読の方は、ご注意ください。

『匣の中の失楽』および『闇に用いる力学[赤気篇]』を
未読の方は、以下のYESをクリックしてください。
YES

今回使用したテクスト
講談社文庫版 双葉文庫版 光文社刊


参 不連続線とはなにか
 『匣の中の失楽』の冒頭で登場する「不連続線」とは、何を意味するのだろうか。
 講談社文庫版の解説で、インド哲学者の松山俊太郎は、次のようにいっている。
 「この大作は、霧の迷宮の中で<不連続線>を求める、曳間の彷徨ではじまるが、<
不連続線>とは、<認識の先天的な被制約性>の有力な一例としての、<現実認識の
不可避に排中的な非連続性>という心理学的事実に苛立つ曳間が、この事実を超克す
るために、幼児体験から取り出した、一つの<象徴>である。
 つまり、<天気図>における<不連続線>とは、その名称とは反対に、不連続な二つ
の相を<連続させる線>だったのである。したがって、濃霧の中で象徴としての、<不
連続線>を尋ねる行為は、精神の衰耗状態の中で<不可能を可能にするもの>に執
着する、狂気に近い心境の、視覚的な表現と解される。」(P652〜653)
 この論考に関しては、異論はない。ただし、松山自身が「作者の代弁者である曳間が
「記憶におけるくりこみ原則」「記憶における超多時間原則」という二論文の梗概すら述
べてくれず、影山の<時間理論>も不明である」(P653)といっているように、曳間の思
想の内実が見えないことが、論考の制約となっていることは否めない。
 その後、『匣の中の失楽』は、講談社ノベルス版や、双葉文庫版が刊行されたが、曳
間の二論文の中身については、依然ブラック・ボックスのままである。
 そのためか、『匣の中の失楽』論は多くあっても、「不連続線」に関する論考は、実は非
常に少ないのである。

 笠井潔の小説『天啓の器』(双葉社1998.9、双葉文庫2002.7)の冒頭にも、「不
連続線」に関する記述がある。
「僕は「不連続線」を超え、未実現の作品世界に到達する謎めいた通路として、あの濃
霧の世界を創造した。現実に存在しないような濃霧は、また死の世界でもある。濃霧を
通過することで、生身の僕は象徴的に死んだ。「不連続線」を超えた僕は、可能と不可
能が交錯する神秘的な作品世界に到達することができた。一度は濃霧の中で死に、あ
の小説の作者として再生したとも言える。」(双葉文庫版P9〜10)
 文中に「通過」という言葉がみられるように、笠井潔は文化人類学でみられる通過儀礼
(イニシエーション)を念頭に置いて考えている。文化人類学での通過儀礼(イニシエーシ
ョン)とは、成人になるための儀式や、結社への入社儀式に適用する。そこには、象徴レ
ベルで、それまでの自分の<死>と、これからの自分の<再生>の交代劇が刻み込ま
れている。<死>と<再生>は、宗教学者ミルチャ・エリアーデが好んで取り上げたテー
マである。エリアーデにちなんで、ミルチャというヴァンパイヤーを自身のSF小説に登場
させた笠井潔が、「作家になる」ということに一種の通過儀礼を見るのは、ごく自然であっ
た。問題は「不連続線」という言葉に、竹本健治はそれ以上の意味をこめているのでは
ないかということである。
 だが、笠井潔は、そのような疑問を持たなかったのか、「職業作家としての長年の経験
に照らせば、あの小説のキイワードである「不連続線」とは作家志願者の思い込み、稚
拙きわまりない象徴図式に過ぎない。現実と虚構、あるいは日常と事件。正気と狂気、さ
らに生と死。この世界と、あの世界のあいだには「不連続線」があると信じられる者は、
夢想的な子供だけだ。」(双葉文庫版、P10)と書く。
 笠井潔の解釈する「不連続線」には、現実世界と文学空間の境界線以上の意味が込
められていない。曳間了が抱えていた認識論上の問題も、心理学の記憶に関する問題
も、すっかり抜け落ち、単に濃霧の中で、独自の文学空間に参入するというだけの意味
にすりかえられている。
 無論、『天啓の器』はフィクションであり、天童直己のキャラクター設定に竹本健治本人
と異なる部分が含まれている可能性はある。そのため、次に「竹本健治」とはっきり明記
された評論で、笠井潔が「不連続線」にいかなる理解をしているか、確認しておこう。

 笠井潔著『探偵小説論 II 虚空の旋回』(東京創元社1998.12)「第三章 「幻影
城」の時代」によると、「青年たちの閉塞感と不全感は、もはや救済や解放の幻影さえ不
可能ならしめるほど深化している。それは抽象的に、たんに「不連続線」と呼ばれるのみ
である。」(P84)といい、「ニヒリズムと呼ぶことのできない無力感、徒労感、虚脱感。そ
れらもまた「匣」や「迷宮」に閉じ込められて脱出の可能性さえ奪われた、大量生の時代
の青年に見合うものといえるだろう。」(P85)という。
 笠井史観は、「大量生」もしくは「大量死」の時代が、探偵小説を生んだという見解であ
る。これは画期的なものではなく、「二度にわたる世界大戦による不安感や危機意識
が、ドイツやフランスの実存主義を生んだ」という社会思想史の「実存主義」を「探偵小
説」に置き換えただけの紋切り型の理論である。問題は、作品を読む際に、「大量生」や
「大量死」という自らの理論のタームに引き寄せてしか、解読できなくなっている点であ
る。この『探偵小説論 II 虚空の旋回』に収められた『匣の中の失楽』に関する論考で
も、笠井史観に引っかかった部分だけが取り上げられ、『匣の中の失楽』という作品の固
有性は失われてしまっている。その結果、「不連続線」の理解についても、単に「閉塞感
と不全感」や「無力感、徒労感、虚脱感」であるということになってしまっている。
 仮に笠井潔説を採用すると、『匣の中の失楽』にある次のような記述が了解できなくな
る。
「なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。…(中略)…彼は、田舎から尋ねてく
る叔父に、よく、『おじさんは、いなかからずうーっと、ここまで来たの?』という質問をし
たものだった。叔父は、しばしば繰り返されるこの質問の意味がよく呑みこめずに、ただ
『ああ、そうだよ』と答えるばかりだった。」(講談社文庫版P10〜11)
 曳間了は、世界がずうーっと連続しているのではないと考えている。そのため、世界が
連続していることを当然のように考え、疑うこともしない叔父やその他の人々に、異和を
かんじている。「不連続線」に、世界がずぅーっと連続しているのではない、という意味が
込められているのならば、これを「閉塞感と不全感」や「無力感、徒労感、虚脱感」という
意味だけで受け取るのは、あまりにも杜撰な議論といわざるを得ない。これは、<不連
続線>に、<認識の先天的な被制約性>を見出す松山俊太郎説からの後退である。
 笠井潔の批評における大雑把さについては、コリン・ウィルソンのそれを連想させる。
コリン・ウィルソンも、文芸批評において、自らの思想に適合する部分だけを取り上げて
しまう傾向があり、アウトサイダーの問題や、至高体験の問題だけをクローズ・アップさ
せてしまうという問題点がある。その結果、ラヴクラフトの作品を『夢見る力』で論じた際
に、ラヴクラフトは(自分の評論と同題の)「アウトサイダー」という小説も書いており、ア
ウトサイダーの問題意識はあったが、その作品群はペシミスティックで、絶望感が溢れ、
(至高体験のなんたるかを知っていないので)評価できないとこき下ろしたのである。そ
の後、改めてラヴクラフトの作品を読んだり、自らクトゥールー神話を書くことで、彼は自
分の批評が偏狭であったことに気づき、評価を修正するのである。

  『匣の中の失楽』が、埴谷雄高の『死霊』の影響を受けているという指摘は、すでに松
山俊太郎による解説でもなされており、「作者は、羽仁和久に埴谷雄高氏を投影して、
氏の用語である”Ach!"をもじった、「あっは」を連発させるという遊びを行っている。」(講
談社文庫版P653)としている。ただし、双葉文庫版に収録された綾辻行人との対談で、
竹本健治自身が明らかにしているように、「『死霊』よりむしろ、『闇の中の黒い馬』とか、
あのへんの一連の短編のイメージを各所に取り入れた」(双葉文庫版P651)というのが正
確なようである。
 いずれにせよ、冒頭の「霧の迷宮」に、埴谷雄高の作品のイメージが深い影を落として
いることは間違いのないことである。埴谷雄高もまた、自らの文学空間で「霧」、「闇」等
を多用して、自身のイデー(「妄想」)を表現した作家だからである。埴谷雄高は、イヌマエ
ル・カントの批判哲学の読書体験から、哲学ではできないことを妄想としての文学に科そ
うとしたのである。
 カントの批判哲学は、(1)『純粋理性批判』による認識論、(2)『実践理性批判』による倫
理学、(3)『判断力批判』による美学に大別できる。認識論から見ると、カント以前におい
て、われわれの認識はすべて対象に従うというものであったが、カントは対象がわれわ
れの認識に従うというコペルニクス的転回を行ったことになる。その結果、われわれの
直感が認識するものは現象に限られ、物自体すなわち本体(Noumenon)を認識できるわ
けではないとされるに至った。カントは、この立場から経験を超えて純粋悟性を拡大しう
るかのような欺瞞をわれわれに与える先験的仮象(transzendentaler Schein)を撃破し
ようとする。それは、具体的には(a)心理学的理念(魂の存在はあるか)、(b)宇宙論的理
念(宇宙の果てはあるか)、(c)神学的理念(神の存在はあるか)である。これにより、わ
れわれの知りえないことに関する形而上学の学説は粉砕される。カントにおいては、認
識論のレベルで、一旦神の存在は知りえないとしてしりぞけられるが、実践理性の倫理
的要請によって、再度神の当為が主張される。
 しかしながら、カントの厳格主義・批判主義によっては、埴谷雄高の抱えていたアポリ
アは解決されなかった。埴谷雄高の抱えていた問題とは、目的は手段を浄化するか、未
来の人々のために、今日何千、何万の人々の死は容認されるか、といったテロリズムと
革命に関する難問であり、ドストエフスキーの「大審問官」が提出した権力と自由をめぐ
る難問であった。したがって、埴谷雄高は、このアポリアを解くために、自身の位置を哲
学から、妄想としての文学に移動させたのである。そして、彼が「霧」や「闇」、「影絵」と
いった世界を好んだのは、自身の妄想を展開するのにふさわしい場であったからであ
る。ライフ・ワークとなった『死霊』の中で動き回る登場人物は、彼の中にあった観念が
人間のかたちをとったものであり、人形であった。つまり、『死霊』においても、人間は描
かれていない。

 曳間了が「なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。」という観念を抱いていた
とすれば、彼の時間概念はデジタルであることを示している。そして、曳間の疑問を理解
しない叔父をはじめとする人間たちは、アナログ的な時間概念を持っていることを示して
いる。
 このことは、『言葉と物』で示されたミッシェル・フーコーの歴史観との比較で考えるとわ
かりやすい。キリスト教やマルクス主義では、歴史は過去から未来へ直線的に連続して
流れるという通時態重視の歴史観を持っている。ところが、フーコーの場合、歴史は地
層のように、不連続性をもっており、それぞれの時代にはエピステーメーという認識の基
盤が働いているが、地殻変動により、まったく新しいエピステーメーが生まれるという共
時態重視の歴史観を提出した。そして、通時態重視の歴史観は、現在から過去を見た
際に、明らかな断絶・不連続性があるにもかかわらず、つじつまあわせの欺瞞で、不連
続性に穴埋めを行った捏造であると考えるのである。このフーコーによる<知のアルケ
オロジー>には、フリードリヒ・ニーチェによる系譜学の思想が深く影を落としている。
 フーコーがマクロ(人類の精神史)を対象にしたのに対し、曳間了はミクロ(個人のアイ
デンティティーがいかにつくられるかという心理学上の問題)を対象にし、同様の「不連続
線」の思想を展開したのではないだろうか。
 
 ところで、フリードリヒ・ニーチェは、病者の視点から、キリスト教の中に弱さのニヒリズ
ムを見出し、やがて道徳の系譜学を確立していった。トーマス・マンは『ファウスト博士』
で、天才と梅毒の問題を扱ったのは、ニーチェのことが念頭にあったからである。また、
ドゥルーズ=ガタリは、『アンチ・オィディプス』の中で、ニーチェの晩年のスキゾフレニー
に言及する。
 ミッシェル・フーコーの場合、彼自身のホモ・セクシュアルというマイノリティーの問題
を、彼の哲学を考える上で、無視できない。彼の展開した哲学は、クィアー・ポリティック
スなのである。
 では、曳間了はどうか。彼の鋭敏すぎるデシタルな時間感覚の背景に、なんらかの精
神疾患を疑う。
 相手の中に没入して、生の純粋持続を想像的に思惟する(要するに、捏造すること。
欺瞞することである。)ことがないということは、相手が存在することはわかっていても、
相手の実在感が湧かないということではないか。相手との心理の絡み合いがなく、単に
そこに<ある>というように。

 ところで、「作者の代弁者である曳間が「記憶におけるくりこみ原則」「記憶における超
多時間原則」という二論文の梗概すら述べてくれず、影山の<時間理論>も不明であ
る」(講談社文庫版P653、松山俊太郎、解説)という事情は、その後、『匣の中の失楽』
のさまざまなヴァージョンが刊行されたにもかかわらず変わっていないが、実は竹本健
治は別のところで、この問題系を発展させていると、私は考える。それは、『闇に用いる
力学[赤気篇]』(光文社)の中において、『つじつまあわせの構造』(P211)という名称
でなされているのである。
 『闇に用いる力学[赤気篇]』(光文社)で、竹本健治は次のように書いている。
 「人はものごとを捉え、理解し、体系化するとき、絶えずこのつじつまあわせを行ってい
る…(中略)…そのベースになっているのは、彼独特の<命題のトポロジー的連環モデ
ル>…(中略)…従来のモデルでは、Aという命題とBという命題が関連づけられる場合
…(中略)…結局は線によって結びつけられるほかなかったけれど、彼が提唱したのは、
命題というものが輪ゴムのような閉じたリングになっていて、AとBとの関連は…(中略)
…両者がリングの連なりによってチェーンのように結びつけられることで表現される…
(中略)…いちばんの利点は、従来のモデルでは命題と命題の連関が連続的なものとし
て表現されるほかなかったけど、このモデルでは関連そのもののうちに非連続性が織り
こまれている」(P213〜214)
 ここで<連続>と<非連続>ということばが見られることに注目しなければならない。
 こうして、『匣の中の失楽』の<不連続線>をめぐる探求は、『闇に用いる力学[赤気
篇]』における<つじつまあわせの構造>の読解へと、必然的に発展していくことにな
る。

 (2004.3.17)
(2004.3.20一部加筆)
 


先頭ページに戻る






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送